■新選組関連記事メモです

—–

■左之さんあれこれ

原田さんって
どんな敵にも勇猛果敢に挑み、男気溢れる男の中の”漢”――
なんだけど、あまり頭はよろしくない…
そんなイメージが強くありました。
新選組の漫画なんかでも、よくそう描かれていることと思います。
ですが、実際は利発で学問にも優れた人物だったようで、藩校の助教に仕えることを
許され(本来、原田さんの身分では藩校に入ることはできなかった)、武術・学問を学んだそうです。
ただ年長者に逆らうことも多く、制裁を受けることもしばしばだったそうで、後ろ手に縛られたうえ猿ぐつわをはめられ、水をぶっかけられたこともあったらしいです(笑)。
薄/桜/鬼の左之さんで妄想すると、ちょっと卑猥というかなんというか…

この藩校(明/教/館)は現在、とある高校の敷地内に移築されたそうですぐに見学は出来ないそうです。なんと二週間前までに申請、許可が必要だそう。高校内なので土・日・祝などは見学不可。市の財産なので広く開放してほしいものですが…
今はすぐに行ける距離に住んでいるのでコロナが落ち着いた頃に一度足を運んでみたいなと思っています。

■屯所の数

壬生の屯所って八木邸、前川邸のみだと思ってる方が多いのではないでしょうか。
でも、実はもう一邸、新選組は拝借していました。

永倉さんの書かれた「浪士文久報告記事」には”八木宅、前川宅、南部宅旅宿いたす”
と、もう一邸の名前がしっかりと記されているそうです。

全然知りませんでした(読めよ)…

今現在、八木邸、前川邸の建物は現存しているので、実際に見ることもできますが
この南部邸は何も残っていません。 そのため、知らない方も多いそうです。
そしてこの三邸に居住する隊士たちを呼ぶ時には、カチカチと拍子木を鳴らしていたんだとか。

—–

■大正12年6月8日付けの新聞

明治40年頃に原田左之助が 郷里・松山に戻ってきたそうで、そのときの聞き書き記事。

原田さんが松山に戻ってきた16~17年後に、渡邉實氏が原田さんの義理の弟、大二郎氏を取材。その取材内容等を愛媛新報社の人間に語り、それが記事となったもの。
渡邉さん曰く「原田は坂本を刺したのち、満州に渡って馬賊の頭となり、日清・日露戦争の際には日本軍を援助。高齢ではあるが、今直健在しているらしい」と。

そこで原田さん(1840~)の年齢を計算してみたのですが

日清戦争(1894)—-54歳

日露戦争(1904)—-64歳

松山帰郷(1907)—-67歳

なんですよね。
明治、大正時代の平均寿命が40歳代らしいんで、桁外れに元気だったことが伺えます。
てか60になってもバリバリ馬に乗って大暴れしてたって、あんたスゴイよ。
※ちなみに永倉さんは大正4年(1915)77歳まで生きる

で、以下は記事に載ってはいませんが……
松山に戻ってきたものの、原田さんは坂本暗殺の犯人だと思われていた時代だったんで
久しぶりに会った弟など親族からは冷たい態度で接せられてしまったそうで。
んで一晩泊まった後に満州に帰っていったらしいです。(こちらは某新選組史料を参考にさせていただきました)

でね。
原田さんが還暦越えても超人的にハッスルして戦場駆け巡ってたって、夢とロマンだだ漏れな話なんですけど、その内容と同様に人名の間違いが気になってしょうがなくて。

まず、ふり仮名間違いから。
■近藤勇(こんどういさむ)■土方歳三(つちかたさいぞう)

誰……

まぁ、そうとも読めるけどさ。 読めないならふるなっていいたい。
愛媛では新選組の知名度って低かったんだろうな……

そして 挙句に人名間違い。
■阪本龍馬■原田佐之助って

え、え、え、
デカデカ間違いですか、しかも見出し記事の人名ってどうよ?

そういえば
大阪の阪の字、昔はつちへんの「坂」でしたよね。
それが「坂」の字を分解すると「土に反る」と読めてしまい、縁起が悪いことから江戸時代の頃には「阪」の字を使用するそうになったとか。
明治時代には今の大阪の字が定着。
それは一説には明治新政府が「坂」が「士が反する」、武士が叛く(士族の反乱)と読めるので「坂」の字を嫌ったとも、役人の書き間違いからそうなったとも言われているとか。(こちらはwik●を参照)
もしかするとこの「坂本」間違いにも何かしらそういうのが関係あったりするんでしょうか。

まぁ江戸時代って名前に使われてる漢字でも、あまり重要視してなかったとかって
聞いたことがあるんですが、その名残的なものでしょうか。
でも、これって新聞なんですよね。
大正期の。

こんなに間違いだらけでいいのだろうか……